人間のためにデザインしよう――「誰のためのデザイン?」
本書は、認知工学者ドナルド・ノーマンによって書かれたデザインについての本である。
「ドア」を例に取ってみよう。
「ドア」と一言にいっても「押す」、「引く」、「持ち上げる」、「回す」等、様々なデザインが可能である。この場合、よいデザインとはドアは開ける人がその方法を一目で分かるということになる。
デザイナーはしばしば、斬新な物を生み出さなければならないという強迫観念に駆られてしまう。その結果として誰のためのデザインなのかまったく分からないようなもの――おしゃれだけれど、開け方の分からないドアとか――ができてしまうのだ。
デザイナーの思いとは裏腹に、大抵は標準に従わないと痛い目をみる。時計をデザインすることを考えるときに、反時計回りだったり、12時の位置が上になかったりしていたらどうなるか想像してみたらよい。それにもかかわらず、標準化は政治的な理由などによって成功しないことも多く、そのために質の悪いデザインを強いられる事も少なくない。標準はデザイナーにとって悩みの種に違いない。
デザイナーではなく、テクノロジーの専門家がデザインする場合はどうだろうか。
使い方が分からない利用者に対して、
「マニュアルを読まなかったのですか? xページに書いてありますよ。」
というやり取りに覚えはないだろうか。
利用者はこの場合に自分を責めてしまいがちだが、マニュアルを読まないと使えないようなデザインは、そもそもデザインの失敗なのである。この手の問題が複数の人によって引き起こされている場合、デザインに問題があると考える方が自然だろう。
テクノロジーの専門家はテクノロジーの専門家であって、デザインの専門家ではないことを肝に銘じておかなければならない。
「4口あるコンロのつまみのデザイン」や「お湯と水が出せる蛇口のデザイン」等、このような問題はそこら中に溢れている。改めて身の回りのデザインを観察すると「よくできているなー」とか「これはちょっと」っていうのがあって結構面白い。私は最も身近なもので、最低のデザインを見つけた。
HHKBだ。
そもそも、キーボード自体最低の入力デバイスであることに疑いの余地はない。さらに、HHKBにはキーは刻印されていないし、マニュアルを読むことなしにまともな使い方は分からない。教科書通りに解釈すれば最低のデザインと言える。おそらく、ノーマンが100人いてもHHKBはこの世に生まれることはなかっただろう。それでも、私にとって最高のキーボードであるのだから、デザインとは本当に難しいものだなぁ。
Conclusion
「改訂版へのまえがき」で述べているように、一般の人、エンジニア、デザイナーなど誰にとっても楽しめる本に仕上がっている。
私はシステムエンジニアとしてこの本を読んだわけだが、マニュアルの件など沢山の学びがあった。デザインは人間のためにされるものであって、技術が進歩しても人間は進化しないのだから、この本の中身は色褪せないという主張はおそらく正しくて、今でもこの本を読む価値はあるだろう。
あえて気になる点を述べるとすれば、不必要に言葉の定義が多く、全体的に学術的な面があることかなぁ。「シグニファイア」、「アフォーダンス」、「知覚されたアフォーダンス」、「真のアフォーダンス」等々。一般の人にこれらを理解しながら読めというのだろうか?
しかも、このうちの一つの言葉は著者が意図した使われ方をせず、誤用によって広まってしまったというのだから、これは真にデザインの敗北である。
「誰のための言葉?」
と、少しばかり思ってしまったりする。