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すべての生き物は遺伝子が自らを複製して後世に残すための乗り物にすぎない——「利己的な遺伝子」

Description

本書は、イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが一般向けに書いた、遺伝子と進化論についての本である。

本書の主張を一言でまとめるなら、自然淘汰を勝ち抜いてきたのは利己的な遺伝子だ、ということになる。

私が本書で活用する中心的なアイディアは、今世紀の初頭、遺伝子以前の時代に、A・ヴァイスマンが「生殖質連続説」という学説で予示していた。私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもないことを論じるつもりだ。それは遺伝の単位、遺伝子である。

-- P54

何を当たり前のことを、と思うかもしれない。興味深いのは、利他的な振る舞いですら遺伝子の利己性によって説明がつくということである。ここでいう利他的な振る舞いとは、自分の生存確率を下げるような行為のことだ。たとえば、自分の食料を他者に分け与えるのは利他的な行為である。

本書では様々な生物の行動が遺伝子の利己性の観点から考察される。以下はその一例だ。

Conclusion

遺伝子についてただ一つ確かなことが言えるとするなら、淘汰されなかった遺伝子が現存している、ということだろう。

利己的な遺伝子が自然淘汰を勝ち抜いてきたという本書の理論は、直感的には正しそうだ。しかし、本書でいう「利己的」とは、結局のところ「自身の複製をより多く残す」ということだ。そして、より多くの複製を残した遺伝子が今も生き残っている。つまり「生き残っている遺伝子は利己的だ」という主張は、冒頭で述べた「淘汰されなかった遺伝子が現存している」ということを言い換えたにすぎない。正しくはあるが、何も言っていないに等しいのではないだろうか。

だからこそ、どんな生態にも後付けで説明がついてしまう。先に挙げたライオンやガゼルの例も、それが今存在している以上、利己的な遺伝子の産物として説明できてしまうのだ。

なぜ淘汰されなかったのかは、家畜や遺伝子組み換え作物を考えても分かるように、人為や偶然を含めて様々だろう。しかし、この理論はその理由については何も教えてくれない。

第11章「ミーム」では、この議論が人間の文化にまで広げられる。

私の展開してきた議論は、一応は、進化のあらゆる産物にあてはまるはずだ。もし何らかの種を例外として除外しようと言うなら、特別に妥当な根拠が必要だ。私たちの属する人間という種を特異な存在と見なす妥当な根拠はあるのだろうか。私は、そのような根拠はたしかに存在すると信じている。

人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼ要約できる。

-- P325

著者によれば、人間には遺伝子とは別に、文化という新しい自己複製子があるという。文化も自己複製の機構を持つのだから、遺伝子と同じように淘汰されるというわけだ。

そしてこの章は人間賛歌で締めくくられる。うーん。

この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ。

-- P345

物理学的な視点から見れば、どんな生き物もただの原子の集まりだ。ユーリー–ミラーの実験が示したように、原始の地球を想定した環境では、単純な分子からアミノ酸のような有機物が自然に生まれ得る。その先のどこかで偶然、自己複製可能な分子が現れ、長い年月を経てその子孫である遺伝子が優位を占めるようになっていっただけだろう。人間はその中の一形態にすぎず、他の生き物と区別すべき理由はまったくない。それに、遺伝子にはDNAという実体があり、何がどう複製されるのかがはっきりしている。一方で文化には実体がなく、何が複製されるのかも曖昧だ。そんな無形の文化を同じ枠組みで説明しようとする意味は、あまりないように思える。(皮肉なことに、ミームという著者の造語は、淘汰されずに残っている笑)

総じて、一般大衆向けといった感じの一冊だった。キャッチーで刺激的な記述の多さが、ベストセラーになった理由なのだろう。脚注には、「利己的」という単語が独り歩きして本来の意図とは違う意味で使われている、という嘆きがあったが、書き手の問題のように思えて仕方がない。

本書は、突き詰めれば「生き残った遺伝子は生き残った」と言っているにすぎない。たったこれだけのことを説明するのに、500ページも読む必要はないだろう。

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